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rexus別館

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resurrection vol.3

apotosis


台所の方から包丁の音が聞こえてくる。鋭い刃が木製のまな板を打つ、規則正しい、小気味よい音だ。
 当たり前のように存在する日常のリズム。いつもであれば、それは俺の心を満たしてくれる筈だった。だが今日は違った。その音は延々と頭の中に降り積もっていって、その度に、苛立ちに似た感情がもくもくと沸き起こってくる。いや、この音に対して苛立っているワケじゃない。俺を苛立たせているのは、この音をたてている張本人だ。
 不意に包丁の音がとぎれる。それをまな板の上に置く音が続いて、彼女はこちらに振り返ったようだった。
「どうしたのさ?」
 イリアらしい無邪気な声が聞こえてきた。勘ぐっているわけじゃない。ただ単に疑問に思っただけなのだろう。今の俺にとっては、そんな彼女すら苛立ちの対象でしかなかったけれど。
「別に」
「別にって、そんなわけないでしょ?」
「どうしてだよ」
「帰ってきてからずっとそんな感じじゃない。ムスッとしちゃってさ」
「そんな事ねーよ」
「そんな事あるよ! 私何か気に触る事した? もしそうなら、はっきり言ってくれないと解らないよ」
「だからそんなんじゃねぇって、言ってるだろうが」
「だったら何でそんな言い方するんだよ!」
 急に語気を荒げるイリア。眉間に皺を寄せて、頬をぷぅっと膨らませて、如何にも「怒ってます」なんて主張しながらこちらに近づいてくる。その様子にますます苛ついてしまって。俺は一度だけ彼女の顔を睨み付けると、すっくと立ち上がって、肩を怒らせながら彼女に背を向けた。
「どこに行くんだよ!」
「……食欲が失せたから外の風にあたってくる。俺の分も食っていいぞ」
「ちょ……」
「じゃあな」
 有無を言わせぬように吐き捨てる俺。乱暴にドアを開けて、足早に部屋から飛び出していった。


 鼓動が高鳴っている。
 先ほどの光景が頭の中で繰り返されていた。何度も何度も、決して途切れもせずに。
 目眩を起こしてしまいそうな軽い混乱の中で、「何故あのような事をしてしまったのだろう」という疑問が際限なくわき起こってくる。
 その行為に至った理由は明白だ。イリアがニールの事ばかり見ているから。アイツの事ばかり楽しそうに話すから。でも、何故あのような事をしてしまった? もっと別のやり方だってあっただろうし、彼女にそのような仕打ちを受ける非などありはしなかった。これは俺自身の問題であって、俺には彼女の思考や行動に口を出す権利などありはしないのだ。
 それなのに……何故俺はこんなにもムシャクシャしている? どうしてイリアの事ばかり考えているんだ? アイツの事を思い浮かべる度、深い泥沼の中にズブズブとはまっていくような気がする。その泥は少しずつ俺の内へと染みこんできて、思考すら、その混沌とした闇の中へと飲み込まれてしまう。
「……どうしてアイツなんだ」
 苦々しく呟いて、俺は暗闇の中に歩を進めていった。

 あてもなく町中をぶらついて、辿り着いたのは、外れにある寂れた酒場だった。酒に強いわけではないが、今の俺には、この雰囲気がぴったりとあっているような気がした。
 ドアの隙間から漏れてくるのは灯りだけ。人の声など、殆ど聞こえては来ない。窓硝子はススだらけで中の様子は見えないし、看板と言えば、これまたすっかり錆付いてしまっている。
 まるで今の俺みたいじゃないか。心の中で自嘲的に呟いて、ゆっくりとドアを開けた。
 煙草独特のきつい臭いが鼻につく。次いでアルコールの臭いも。僅かばかり圧倒されてしまいながらも、それを悟られぬよう、足早にカウンターへと向かっていった。目に入った所で、客の数は2・3人といったところか。もっとも、ちらっと見ただけで正確な数ではないけれど。
「一人?」
 椅子に腰を下ろした俺に、女将はさも訝しげに訊ねてきた。まさか同伴が必要な年に見られたわけじゃないだろうが、何となく嫌な感じがする。「一人」という言葉も。
「ああ」
「何にする? ミルクかい?」
「……この店にそれしか置いてないならな」
「ハハッ、ごめんよ。ちょっとからかってみただけだよ。あんまり若く見えたもんでね。悪気はないんだ」
 耳に突き刺さってくるような野太い声だった。悪びれた風もなく、何も無かったと言わんばかりの口調。なるほど、この店の現状にも頷けるのかもしれない。
「だろうな。トリカーナは?」
「あるけど……あんたが飲むのかい?」
「他に誰がいる」
「ハハッ、ごもっともだ」
「金ならある。心配しなくていい」
「やだねぇ、そんな野暮な事をお言いでないよ。ほら、強いから気をつけるんだよ?」
「……ああ」
 グラスに注がれた琥珀色の液体を口に含んだ瞬間、焼き付くような強い辛みが舌に絡みついてきた。しまったと思った時には後の祭り。半分くらい飲み込んだそれが、一気に喉の奥まで流れ込んでいく。
「ほら、言わんこっちゃない。だから強いって言っただろ?」
「生憎、俺も強いもんでね。これくらい何ともないさ」
 見知らぬ人間の前で強がる事もないだろうに。これが俺の実態なのだとしたら、イリアが嫌うのも無理ないのかもしれない。普通酒というものは人を陽気にさせるというが、この俺は例外のようだ。どんどん考えがネガティブな方向へと傾いていきやがる。
 どうしてニールなんだ? よりにもよってどうしてあんな男に。偏屈で、皮肉屋で、嫌味で……そんな単語を並べていると、ふと、それが俺自身であるように思えてくる。あんな男と同じだなんて冗談じゃないが、実際そうなのだからタチが悪い。フフッ、笑えてくるじゃないか。
「どうかしたのかい?」
「……ん、どうかしたか」
「それはこっちの台詞だよ。さっきから難しい顔してブツブツ言ってるからさ」
「なあ、どうしてニールなんだ?」
「誰だい、そのニールってのは」
「何でもない。気にするな」
「そんな風に言われると気になるじゃないか」
「好奇心は身を滅ぼすと言うぞ。気をつける事だな。まあいい。ニールだよ。ニール様。近衛騎士団長のな」
「ああ」
 顔をしわくちゃにさせて渋い顔をする女将。どうやら、ニールの奴は相当有名人らしい。こんな場末の酒場の女将にまで知られてると聞いたら、奴も感動する事間違いなしだろう。
「知ってるのか?」
「知ってるも何も、有名じゃないか。いつも女王様の側に張り付いてるんだからさ」
「なるほど。まあそうかもしれんな。素敵なすてきな近衛騎士団長様ってわけか」
「何が素敵なもんか。あいつはね、私たちの事を見下してるんだよ。いつだってそうさ。汚いものを見るような視線を私たちに向けて、嫌味な奴さ。評判だって酷いもんだよ」
「ふふっ、良く解ってるじゃねぇか。全くだ」


 結局、やっとの事でグラスを空けた俺は、出来得る限りに平静を装いながら、そそくさと酒場を後にした。
 飲めないならはじめから飲まなければいいのに。無理して最後まで飲むことなどないだろうに。我ながらつくづくいい性格をしていると思う。女将も、俺が殆ど飲めないことくらい、始めから解っていたに違いなかった。何度も「およしよ」とか「無理しなくていいから」なんて声をかけてきたけれど、その度に俺はピッチをあげて。まさに自業自得というヤツだが、気分は最悪。体はフワフワ浮いてる感じがするし、かわりに頭は鉛のように重くて、目の前の視界は酷く歪んで見える。全く、酒なんてものを発明した人間は何が楽しくてこんなものを……暗闇の中に目を凝らしながら、心の中で口悪く罵ってみる。くそっ、一体どうすればいい。こんな状態でイリアの元に帰る訳にもいかないし、これ以上歩ける気もしない。俺は一つだけため息を吐き捨てると、近くの家の壁に背を持たれ掛けて、そのままずるずると地面に腰を下ろした。少しだけ休もう……そうしたら頭がすっきりするだろう。少しだけ……ほんの少しだけ……目を閉じた先から、意識はゆっくりと闇の中へと溶け込んでいった。


 暗闇の中に包丁の音が響き渡っている。規則正しい、どこかしら小気味良い音だ。どこにでもあるありふれた音。それでも、俺はその音が大好きだった。何故なら、俺の人生の殆どの瞬間で、その音は当たり前とはかけ離れた存在だったから。イリアと出会うまでずっと。確かに食べ物に困ったことはないし、さすが一流の料理人が作っただけはある、素晴らしい料理の数々が食卓には並べられていた。それでも、一番大切な何かがそこには無くて。俺にとっての食事とは、ただ栄養を摂取するだけのものだったから。だからイリアと出会って、当たり前の温もりを手にした瞬間、本当に嬉しかったんだ。
「どうしたの?」
 不意に包丁の音が止まって、聞き覚えのある声が頭の中に響き渡った。一条の光が目の前の暗闇を切り裂き、その先に難しい顔をした『彼女』が姿を現す。
「別に」
 何のためらいもなく口をついて出る言葉。どこかで見た覚えのある光景だけれど、それとは何か違う気もどこかでしている。
「別に、じゃないでしょ? 帰ってからずっと難しい顔して、一体どうしたのさ?」
 ゆっくりとこちらに近づいてくる彼女。歩を進めるたび度、その顔はますます翳りを増していく。
「だから何でもないって」
「嘘。シオン、私に隠し事してるでしょ? そういう時、いっつもそういう顔するもん」
「そういう顔って……どういう顔だよ?」
「こういう顔だよ」
 丸みを帯びた彼女の手が頬に触れて、その瞬間、心臓が喉から飛び出してしまいそうなほど、一気に拍動を増していった。胸が酷くザワついて、頭の中にもやでもかかったように、冷静な思考が出来なくなる。この感覚……あの時からずっと、この胸の奥に抱き続けてきた。ザードがイリアの写真を見せてきたあの瞬間からずっと。
「どうして……」
「どうして? それはシオンが知っているはずだよ。ねえ、どうして?」
「どうして……どうしてニールなんだよ! よりにもよって何であんな男に!!」
 彼女の顔に笑みが浮かぶ。そして口付けをするような素振りを見せた彼女は、すんでの所で、その唇を耳元に近づけていった。
「……兄さんは私の全てだった」


 目をカッと見開いていた。僅かばかりの間ほど心臓の拍動がリズムを崩して、体中が燃え盛るように熱気を帯びていく。混沌とした怒りと不安がこの胸をざわつかせている。理由は解らないけれど、まるで道理など何も知らないままこの世に産み落とされた赤子のごとく、俺の頭は酷く混乱していて、この世界と現実を結び付けられないでいた。ただ頭の中にあったのはイリアの姿だけ。悲しそうな顔をして俺を見つめる彼女の姿だけ。
 風に舞う砂の如く、暗闇に浮かび上がる彼女の姿は、思考の奥底へとゆっくりと消え去っていく。その時になって初めて、今まで並立していた夢と現実の線が一本に繋がっていった気がした。混沌とした感情の後に秩序だったそれが姿を現し、理性が本能を駆逐していく。俺が見た彼女は現実ではない、そう言い聞かせる事によって、取るに足らない安心が手に入った気がした。
 ふいに、今朝の光景が頭を過ぎった。言い争うニールとホレース。それを諫めるシェーナ。何か大切なことを忘れているような気がする。先ほどとは異なった不安が胸のうちに沸き起こってくる。

『解りました。それでは本題に入りたいと思います。最初の案件ですが、皆さんも既にご存じの事と思います、城下で発生している連続殺人事件についてです』

 シェーナの言葉を思い出して、同時に「しまった」と思った。アドビス城下で発生している連続殺人事件。犯行は深夜帯に行われて、既に七名もの犠牲者を出している。夜間の外出は控えるよう彼女に釘を刺されたばかりだというのに。
 歯をギリっと噛み締めながら、未だふらつく体を何とか起こして、家の方へと足早に歩いていった。

 しかし、数分もたたないうちに「それ」は現れた。規則正しい足音に混じる異質な足音。人間のそれとは明らかに違う、タタッタタッとういう独特のリズム。
「くそっ……」
 悪態をつきながら足を止める。絵の具を塗りたくったような重たい暗闇の中に目を凝らして、何とかその正体を探ろうとしてみる。しかし、それは俺の周りをぐるぐると回るだけで、決してその姿を見せようとはしない。まるで狩を楽しむ獣のように。
 それが本当に魔物だとしたら、このまま逃げおおせる事など、決して叶いはしないだろう。しかし、酒でフラフラになったこの体で、一体何が出来るというのだろう。
 少しずつ目が慣れてきて、暗闇の先に潜む「それ」の姿がおぼろげに見えてきた。体は犬よりも一回り大きい程度。だが、だからと言って油断するわけにはいかない。体が小さくなればなるほど、魔法で狙いを定めるのは困難になるのだから。
 俺は右手を硬く握り締めると、声もなく術の詠唱を始めた。心の中で唱える一言一言に応じて、拳が少しずつ淡く蒼白い光に包まれていく。そして目の前にヤツの姿を捉えた瞬間、渾身の力を篭めて魔法を解き放った。
ーーザッ
 乾いた音と共に砂埃が舞い上がる。一瞬ほど視界が遮られて、その直後、地面を蹴る力強い音と共に、ヤツの姿が再び目の前に現れた。
「くそっ!!」
 悪態を吐きながら地面に倒れこむ俺。すんでの所で攻撃をかわす事が出来たが、すれ違った瞬間、頬に鋭い痛みがスッと走った。あと少しでもずれていたなら、ヤツの爪は容赦なく喉もとを切り裂いていただろう。そう考えるだけで、体中を嫌な悪寒が走り抜けていくような気がした。とにかく、この場から今すぐ逃げなければならない。相当の勢いをつけて飛び込んできたヤツの事だ。即座にきりかえしたりは出来ないだろう。逃げるなら今がチャンスだ。そう思った俺は、地面に体をつけたまま、極力音を立てないように、突き当りの壁まで這いつくばっていった。それから壁に背をつけ、息を殺しながら、出来うる限り体を小さく丸めていた。
 飲み込まれてしまいそうな暗闇の中で、ヤツの足音と、荒い息遣いだけが響き渡っている。俺の所在を捉えかねているのだろう。一歩一歩を慎重に踏みしめるような足音から、敵の痕跡を逃すまいとするヤツの姿がふと思い浮かんだ。このままやり過ごしてくれればいい。そんな楽観的な言葉を頭の中で繰り返しながら、沸きあがってくる緊張を抑えるように、口の中に溜まった唾をごくりと飲み込む。
 不意に、ヤツの足音をかき消すもう一つの足音が聞こえてきた。こちらに近づいてくるそれは、どうやら人間のものらしかった。一瞬ほど、ヤツが気を取られている隙に逃げ出してしまおうか、という思いが頭を過ぎる。
「どうする……」
 心の中で呟きながら、混沌とした暗闇の中に目を凝らす俺。一瞬ほど雲の切れ間から月光が差し込んで、闇の中に女と魔物のシルエットが浮かび上がる。
「シオンーーねえ、シオン! んもう、一体どこにいるんだよ……」
 背筋にひんやりとした感覚が駆け抜けていった。手足の感覚が麻痺して、まるで思考だけがそこに取り残されているような、そんな奇妙な感覚に取り付かれていた。その声の主がイリアであるということ……それを疑うべき理由などどこにもなかったのだ。
「イリア、こっちに来るんじゃない! 早く逃げろ!!」
 躊躇う事無く叫んでいた。あいつを餌にして逃げるくらいなら、この場で死んだほうが余程マシというものだ。いや、そもそも「あいつを死なせる」という選択肢など、俺の中に存在する筈がないのだ。例えこの命を失ったとしても、絶対に。
「どうしたのさ。もしかして、まだ怒ってるの? もういい加減……」
「早く逃げるんだ!! そこに魔物がいるぞ!!!」
 そう叫びながら、近くに落ちていた小石をヤツ目がけて投げつけてやる。同時にヤツの歩がとまって、一際荒い息遣いが蒼白の暗闇に響き渡る。
「な……そ……そんな……」
「いいから早く行けっ!! このままじゃ二人ともやられちまう!!」
「でも……」
「近くに見回りの兵士がいるはずだ! 俺がヤツをひきつけている間に、早くそいつを連れてくるんだ!」
「え……」
「いいなっ!!」
「う…うん、解った!」
 彼女が走り出したのと同時に、ヤツに向かって魔法を解き放った。炎の刃が暗闇を切り裂き、それは地面を深く抉って、砂埃がワッと舞い上がる。視界が完全に遮られて、「しまった」と思った時には、ヤツとの距離は僅かばかりのものとなっていた。
「くそっ!」
 悪態を吐きながら、壁に立てかけてあったほうきを手に取る俺。それを両手で握って、ヤツの口めがけて、一気に突き出してやる。
「ぐがぁぁぁ!!」
 ヤツの咆哮と共に、ズンと重い衝撃が手首に圧し掛かってくる。バランスを崩した俺の体は、突き飛ばされるように壁に叩きつけられていた。それでも、握り締めたほうきを決して離しはしない。それを離すということは、この命すら手放す事になるのだから。
 目の前には鋭い牙をむき出しにした魔物が。その瞳は鮮血の如く赤黒い光を放っている。その瞳に魅入られてしまえば、あっという間に、この暗闇の底へと飲み込まれてしまうのではないかと思った。じっとりと嫌な汗が零れ落ちて、ほうきを握る手の感覚が少しずつ麻痺していく。このまま手を離してしまえば楽になれるのかもしれない……そのような考えがフッと思い浮かんだ瞬間、泣き叫ぶイリアの顔が脳裏を過ぎった。俺はもう二度とあいつを泣かせないと誓ったのに、もしここで死んでしまったらアイツは……
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
 獣のような咆哮をあげながら、ヤツを突き飛ばさんと、あらん限りの力を両手にこめる。少しでも時間が手に入れば、その中に僅かばかりの勝機を見出すことが出来るかもしれない。何とか術を完成させることが出来たならば。ほうきの柄が嫌な音を立て始めて、鈍い音と共に折れようとしていたその時、ヤツの体は不自然な体勢のまま宙を舞っていた。そして術を発動しようとした瞬間、ビュッと鋭い音が響き渡って、ヤツの体はすぐ横の壁に叩きつけられていた。
「え……」
 何が起こったのかわからないまま、壁に突き刺さったヤツの遺骸に視線を向ける俺。ヤツの背には鋼鉄の矢が、肉を食い破ったそれは、壁に深々と突き刺さっていた。
「シオンっ!!!」
 泣きそうな顔をしたイリアが俺の体に抱きついてくる。俺は何がなんだかわからないまま、ただ暗闇の先を呆然と見つめている事しか出来なかった。先ほどまでの現実が、整理のつかないまま、俺の中に堆積していく。それに埋もれながら、少しずつ現実と言う感覚が麻痺していくような気がした。
「大丈夫か?」
 彼女の背中越しに飛び込んできたのは、低く野太い声だった。声の主に視線を向けると、そこにいたのは、異国風の鎧を纏った兵士と思しき男だった。彼が手にしていた武器も、おおよそこの国のものとは思えない、螺旋やら歯車やらのついた奇妙なものだった。恐らく、オルヴァン辺りの傭兵が雇われてきたのだろう。
「あ……ああ。今のはあんたが……?」
「ああ、間一髪で間に合ったみたいだな」
「そうか……ありがとう。助かったよ。本当に……」
「なぁに、これが仕事だ。それよりも怪我は?」
「大丈夫、擦り傷程度だ」
「みたいだな。それなら医者に見せる必要もないだろう。しかし、城下に魔物とは……世も末だな」
「……全くだな」
 再び呆然と闇の先を凝視しながら、この体を抱きしめるイリアの温もりが、俺にとって唯一の現実だった。



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